伊藤博文(いとうひろぶみ)は初代内閣総理大臣として教科書にも必ず出てきます。
名前は「ひろふみ」ではなく「ひろぶみ」。
少し前まで千円札の肖像画にもなっていました。今の千円札の肖像画が野口英世(2004年から)で、その前が夏目漱石(1984年から)、その前が伊藤博文(1963年から)です。
明治の歴史ではたびたび登場する人物ですので、しっかりポイントを押さえておきましょう。
まずは関連する年表からチェック。
西暦 | 伊藤博文に関する出来事 | その他の出来事 |
---|---|---|
1841年 | 誕生 | |
1871年 | 岩倉使節団の一員として渡欧 | 廃藩置県 |
1873年 | 征韓論 | |
1881年 | 政府内で発言力を高める | 明治十四年の政変 |
1882年 | 憲法調査のため渡欧 | |
1885年 | 初代内閣総理大臣となる | |
1889年 | 大日本帝国憲法発布 | |
1895年 | 日清戦争終結 | |
1909年 | ハルビンで暗殺される | |
1910年 | 韓国併合 |
伊藤博文に関して最初に覚えておきたいのは初代の内閣総理大臣だということです。
ちなみに,第100代内閣総理大臣が岸田文雄になります。
伊藤博文が初代の内閣総理大臣になったのは1885年。
大日本帝国憲法が発布される(1889年)よりも前というのがポイント。
年表の並び替え問題では「伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任」→「大日本国憲法発布」が正しい順番です。間違えないようにしましょう。
なお、伊藤博文は第5代、第7代、第10代総理大臣にも就任しています。
(ちなみに、第2代内閣総理大臣は黒田清隆)
征韓論をめぐり伊藤博文らと対立したのが西郷隆盛。
欧米の視察から戻った大久保利通らとともに国力の充実が先決であると主張しました。
征韓論に敗れた西郷が政府を去ることとなります。
生年月日 | 出身 | 征韓論への立場 | |
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伊藤博文 | 1841年10月16日 | 長州藩 | 内政優先として征韓論に反対 |
西郷隆盛 | 1828年1月23日 | 薩摩藩 | 征韓論で下野 |
自由民権運動が高まる中で目指す憲法の姿をめぐり対立が起きます。
ドイツ(プロイセン)型の憲法を目指すべきとしたのが伊藤博文。
イギリス型の憲法を目指すべきとしたのが大隈重信。
伊藤博文らが政府内で勝利し、発言力を高めることとなりました(明治十四年の政変)。
生年月日 | 出身 | 憲法観 | |
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伊藤博文 | 1841年10月16日 | 長州藩 | プロイセン型の天皇の権限を強くした憲法 |
大隈重信 | 1838年3月11日 | 肥前藩 | イギリス型の議院内閣制を目指す憲法 |