平安時代の末期に武士中心の政治を行ったのが平清盛です。それまでは天皇、貴族が政治を行っていましたが、武士政権を最初に樹立したのが平清盛と言うわけです。
西暦 | 平清盛に関する出来事 | その他の出来事 |
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1118年 | 誕生 | |
1156年 | 後白河天皇側で活躍 | 保元の乱 |
1159年 | 源義朝を滅ぼす | 平治の乱 |
1167年 | 太政大臣になる | |
1168年 | 出家 | |
1180年 | 源頼朝が挙兵、源平の内乱(〜85年) | |
1181年 | 病死 | |
1185年 | 壇ノ浦の戦い |
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したのは平清盛が亡くなってからです。
平清盛が生まれたのは平安時代の1118年。
藤原氏による摂関政治に代わり、白河上皇らによる院政が始まった少しあとの時代です。
この頃から全国各地の武士が力をつけてきました。
そうした中で院政の実権をめぐる争いが起きます。それが保元の乱と平治の乱です。
ここで活躍したことで平清盛が政治の中心に出てきます。
清盛は自分の娘を天皇の后とすることで、より強大な権力を握ります。
自分の娘を天皇の后にするというのは藤原氏が行っていたのと同じですね。
一族にあまりに権力が集中したことで反感を買うことになったのも同じです。
藤原氏ちがいは藤原氏が貴族だったのに対し、平氏は武士であったこと。
平清盛は日本の歴史で初めて政治の実権を握った武士でもあるのです。
平治の乱で源義朝を滅ぼしましたが、義朝の子である頼朝を逃した(伊豆に流した)ことで、やがて頼朝率いる源氏に滅ぼされることとなってしまいました。
保元の乱 | 平治の乱 |
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1156年 | 1159年 |
後白河天皇 vs 崇徳上皇 | 平清盛 vs 源義朝 |
平清盛と源義朝はともに後白河天皇側で貢献 | 義朝の子の頼朝は伊豆へ |
平家の全盛を表す言葉として「平家にあらずんば人にあらず(平家の人間以外は人とみなされないといった意味)」という言葉が有名ですが、これは平清盛が言ったものではありません。平時忠(ときただ)という平清盛の妻の弟が言ったとされています。
平清盛で覚えておきたいことには日宋貿易に力を入れたことです。
大輪田泊(現在の神戸市)に港を整備したのが清盛です。
中国との貿易ということでは中学の歴史では日明貿易も出てきますが、こちらは室町時代の足利義満が力を入れたもの。別名で勘合貿易とも呼ばれます。間違えないようにしましょう。
権力を握った平清盛が後白河法皇を幽閉し、独裁的な政治を行うようになったことで貴族や地方の武士たちの間で平氏に対する不満が高まりました。
こうした中で後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)が平氏打倒を呼びかけ、源頼朝や源義仲が挙兵し、源平の戦いへとつながりました。
平清盛はNHK大河ドラマにもなっていて、2012年に松山ケンイチさんが主演を務めています。