【選択肢】
推古天皇の下で摂政となり、蘇我馬子とともに政治を行ったのが聖徳太子です。
中学歴史では卑弥呼の次ぐらいに出てくる歴史上の人物ですね。
福沢諭吉の前の1万円札の肖像画が聖徳太子です。
ほかにも昔の100円札、1000円札、5000円札にも使われていました。
日本の国づくりにかかわった人物ということで、肖像画に使われていたと考えられます。
聖徳太子が、まず行ったのは実力主義による人材登用。
当時は豪族が世襲によって重要な地位・役職を占めていました。
コネで地位が決まる組織は弱体化します。
そこで、実力により12個の位を設けたのが聖徳太子でした。
【正解】
(ウ) 冠位十二階
【選択肢】
聖徳太子が摂政となって国づくりを始めたころは、まだ日本(倭)としてのまとまりに欠けていました。地方に有力豪族が割拠している状態です。
こうした状況では豪族同士のもめごとも頻発します。
お互いに争っていては国づくりどころではありません。
そこで、役人としての心得を記した十七条の憲法の第1条を「和をもって貴しとなし、争うことなきを宗とせよ」としたわけです。
ちなみに、第2条では「仏教を敬え」、第3条では「天皇の詔に従え」ということを掲げています。仲良くして、仏教を敬い、天皇に従えということです。
【正解】
(ア) 和
【選択肢】
聖徳太子は小野妹子らを遣隋使として隋に派遣しました。
当時の先進国の隋の制度や文化を学ぶことが目的です。
隋は周辺国に対して自分たちが格上だとの意識を持っていましたが、聖徳太子はあくまで対等の関係で国交を持とうとしました。「日本、なめんな」というわけです。
そんなことを言われた隋の王(煬帝)は激怒したと言われています。
ただし、朝鮮半島情勢(高句麗の状況)から日本と争うわけにはいかなかったので、日本に攻めてくることはありませんでした。相手の足下を見た聖徳太子がお見事でした。
【正解】
(イ) 日出処の天子、書を没する処の天子に致す