中学歴史の定期テスト対策(日米和親条約、日米修好通商条約)
「日米和親条約」が答えとなる中学歴史の定期テストレベルの問題
- 下田、函館の2港を開港することとなった条約は?
- ペリー来航の翌年(1854年)にアメリカとの間で締結した条約は?
- 2港の開港とともに燃料、食料、水の補給することを定めた条約は?
ペリーが黒船で来航し幕府に対して開港を迫ったのが1853年。翌年の返答を約束した幕府は、1854年に日米和親条約を締結し、下田と函館を開港することとなりました。
これに続いて、イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結ぶこととなりました。
日米和親条約締結前の流れ
1825年 | 異国船打ち払い令 |
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1853年 | ペリー来航 |
1854年 | 日米和親条約 |
「日米修好通商条約」が答えとなる中学歴史の定期テストレベルの問題
- 井伊直弼(大老)とハリス(総領事)が調印した条約は?
- 治外法権を認め、関税自主権のない日本にとって不平等な条約は?
- 函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5港を開港することとなった条約は?
日米和親条約締結後、アメリカが貿易を開始することを求めて締結したのが日米修好通商条約。この条約は治外法権を認め、関税自主権もない日本にとって不平等な内容のものでした。
治外法権というのは、外国人が日本で犯罪を起こしても日本では裁けないというものです。内容が不平等なことと朝廷の許可なく条約を締結したことで反対の声が大きくなってきます。
日米修好通商条約を締結した大老の井伊直弼は、安政の大獄で反対派の吉田松陰らを処罰しました。その後、井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されてしまいます。
日米修好通商条約締結後の流れ
1858年 | 日米修好通商条約 |
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1858年〜59年 | 安政の大獄 |
1860年 | 桜田門外の変 |
1867年 | 大政奉還 |
1868年 | 明治維新 |